誰かの何かを認めることと、誰かを信じることと。
私はどうしても、こいつはどうしてもだめ!嫌い!っていう人が一定数いて、逆に好き好き好きすき、と愛があふれて止まらない人とがいて、両極端に分かれてしまう。荒ぶる人だか一度他人に対して「こいつ嫌い」ないし「好きぃぃぃ」となった人への評価が分かれることはそうそうなかった。ところがどっこい、私のように感受性が高く、それでも繊細でなくいれる私に大きなパラダイムシフトが3月、卒業式あたりで訪れたわけだ。はじめて人に「裏切られた」と感じた。勝手に好いておいて勝手に裏切られたと感じているなんて、たいそうなご身分だな、とは思っているのですよ?
そもそも、裏切られたと感じるのはなんででしょうね?となると信じている、と感じているからでしょうか。なら、信じているってどういうことなのだろうか。
相手の嫌なところが目に付いて気になる、もやもやする、これは裏返すとどういうことでしょう。例えばちょっとした人の短所ならかわいいと思えることも多いけど、そこでかわいい、ってならないのはなぜでしょうね。そう、考えたわけです。多分そこには相手への圧倒的な認める気持ちがあると思うんです。相手を認めるってどういうときでしょうか。大概自分にないものを持っているときか、大きなシンパシーを感じるときでしょう。だからこそ、ちょっとしたことが気になってしまう。そう考えると、自分のアイデンティティに深く根差した認める気持ちからくるのですから、そのまなざしはエゴスティックなものでしょう。
信じることってどういうこと?っていうお話です。以上のことを考えると、こんな考えに至るんですよ。「相手の、自分が認め切れていない部分を受け入れる自分の容量を疑わない」気持ちを持てるかということです。人々の行動というのは各々のどこか一つの部分ではなくて、すべての結果なのだから、誰かを信じるということは相手の自分の認めていない部分、知らない部分から来た結論に対して、まずは聞く耳を持てるだけの度量を持つ覚悟を持つことなんじゃないかな。と。
確かこれは平塚先生の言葉ですが「誰かと付き合うということは、誰かを傷つける覚悟を持つということだ」ということです。どんな聖人君子であっても、たとえ相手が家族、恋人、親友、深い絆で結ばれている人であっても、誰かと付き合っていくうえで相手のすべてを掌握することはかないません。ならば、誰かと付き合うということはその逆境向かい風の中でも相手と対話をしていくということです。お互い知らないところなのだから、それはもちろん相手に言わせればそれはエゴの押し付けあい、お互いにお互いを斬りつけているように感じられるでしょう。知らないのだから、仕様がない。でも、その末に本当に信用にたる相手がいるのではないでしょうか。
エゴ上等。迷惑だってかけてかけられればいい。
少なくても、うわべだけ取り繕って、気に入らないところから目を背け続けるよりずっとずっといい人付き合いができるんじゃないかなって。
ーーー軽々しく信じるなんて言えないなぁ。
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